コービーブライアント Kobe Bryant 8&24
1月26日、コービーブライアント氏が亡くなりました。
41歳。
友達からの電話で突然の知らせに嘘だと思いました。
TVをつけてみると・・・・・・本当でした。
えーっ、言葉が出てきません。
墜落事故が起きたカラバサスという町はハリウッドから北へ約30キロくらいの郊外でジャステインビーバーやマイケルジャクソンの家族などセレブリティーも多く住んでいる
閑静な山にある高級な郊外の町なんですね。
この近くのサウザンオークスという町でマンバアカデミーという子供たちのバスケットボール教室みたいなことをコービーが主催でやっていて
調度この日が13歳の次女の試合だったらしく、いつものように自分のチャーターヘリでニューポートビーチの自宅から娘らと向かっている途中での事故だったそうです。
マンバとはコービーのあだ名で南アフリカに生息するすぐにかみつく蛇 BLACK MAMBAを意味しています。
コービーはレイカーズ現役時代も自宅から試合会場のステープルズセンターまでチャーターヘリで向かったりしていました。
我々凡人はヘリコプターには一生に1-2回乗るかどうかでしょうが、コービーは何百回と乗っていたはず。
渋滞がひどいここLAでは便利な反面、リスクも高かったのかな?と思ってしまいます。
私がこのサインビジネスを始めるきっかけもひとつはコービーが絡んでいました。
1998年、私がここアメリカで暮らしていくためのビザ問題でくすぶっていたころNBAに超ハマっていました。
毎晩NBAをTVで見て、たまにブルズがLAに来た時なんかは試合会場まで行って観戦してました。
もちろん地元レイカーズやクリッパーズを応援しておりまして、趣味が高じてレイカーズやクリッパーズの練習場を見つけ出して
ロードでの試合日以外、毎日のようにモーニングプラクティスの出待ちをしていたんですね。
コービーやシャキールオニールというスーパースターはなかなかというか全く練習後などもサインしてくれませんでした。
練習が終わったら真っ先に高級車を運転して出ていくのがコービーでした。
恐らく私は1999年から2002年のトライピート(NBAファイナル3年連続優勝)レイカーズ黄金時代には数えきれないほどレイカーズの練習場に通いました。
毎日毎日、コービーにはスルーされていました。
そんなある日の2001年10月23日、いつも10人以上は出待ちしている練習場で私の他にアジア系の若い夫婦とベービーカーに乗った赤ちゃんだけが待っている日があったんですね、
いつものように一番最初にコービーがスモッグの利いた窓ガラスの高級車で出てきました。
どうせいつものようにスルーするんだろうと思っていたら・・・・・・・・・・
ゆっくりと車を走らせて待っている我々の傍に近づいてきたんですよ!・・・・・・・
えっ!
そっそして我々の横にピタッと車を止めてスモッグの利いたまっ黒なドライバーサイドの窓が下がってきて中にはあのコービーブライアントが!
笑いながらコービーが「ハーイ、コービーHow are you?」とか話しかけてくるではありませんか???
私は何が何だかわからない状況でこの家族とコービーの会話を傍で聞いていて彼らがコービーのユニホームやコービーのベイビー服などいくつかのアイテムにサインしてもらった後に
写真と画像に出ているタイルに2つサインしてもらえたんです!(この時はまだサインに対して素人の私でした)
これはまさにミラクルでした!
コービーが去った後にこの夫婦に話を聞くと、この数日前にUCLA大学のイベントでコービーと話せる機会があったらしく、コービーの大ファンで自分の赤ちゃんにコービーと名前をつけたんだと話したら是非練習場にでも遊びに連れてきて赤ちゃんを見せてくれみたいな話になったそうなんですね。
そのことをコービーも覚えていて旦那の顔を見て立ち止まってくれたわけなんです。
調度他には私だけでおまけに同じアジア人だったこともありコービーは私も彼らの友達だと思ったんでしょう、きっと(笑)。
超ラッキーだったんです!
後にも先にもコービーからサインしてもらえたのはこの時だけでした。
今となってこのサインは私の宝物になってしまいました。
この2001年はちょうどイチローさんがメジャーに来た年でもありまして私のサイン収集に加速がつき始めた年でした。
そんなコービーがこのような事故で亡くなるなんて・・・・・・・。
実は私、年末に33年の付き合いがある親友をここアメリカで亡くしたばかりなんですね。
夏には28年付き合いのある親友も亡くなりました。
悲し過ぎることが続いております。
ただただ亡くなられた方々のご冥福をお祈り申し上げます。